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西洋と日本の絵画のとらえ方の違い

→液晶絵画展を鑑賞して



先日、国立国際美術館で開催されている

液晶絵画展に行ってきました。

大型の液晶画面を絵画のように美術館に展示し

映像作品を鑑賞することができるという

新しい展示スタイルの試みが行なわれておりました。

新しいメディアをつかった展示は

世間の興味をひいたようで、たくさんの方が

来場されておりました。



さて展示内容は

前半は西欧のアートの王道テーマを扱った作品で

構成されており

後半は日本の芸術感を感じさせる展示になったいました。

そして、その周辺ところどころに、上記にあてはまらない

多文化主義(マルチカルチャリズム)や

脱植民地主義(ポストコロニアズム)を

感じさせる展示がちりばめられているという

展示構成だったと思います。



まず最初の入り口のブースには

ビル・ボイラの「プールの反映」の作品が出迎えてくれます。

この作品はプールの泉が鏡の役割を果たしており

そこに写った人間との対比を約7分間の映像で、

じっくり見せていきます。

なかなか分かりずらい作品で、

いきなりキツネにつままれたような感じのされた方も

多かったのではないでしょうか。


この作品は西欧では常套句である「絵画とは鏡である」

というテーゼと泉に写った自分の姿に惚れてしまった神話

ナルキッソス」のお話を知っていると楽しめる作品です。


カラバッチオ作「ナルキッソス」

ナルキッソスは、泉に映った自分の姿に惚れてしまい

そこから離れられずに、最後はやせ細って森のなかで消えてしまう

お話です。「ナルシスト」の語源になっています。


またプールに映ったっ人は、

しばらくすると泉に飛び込もうとして

途中空中に浮いたまま一時停止され、

宙ぶらりんになり、やがて森に消えていきます。

これは、西欧の事実存在する「実存主義の人間の主体性」が

20世紀以降ゆらぎ、地に足をつけて立てない

人間の存在のことを例えているのかもしれません。




さて、つづいては、サムテイラーウッドの作品です。

これは、静物画に似せた本物の果物や、

死んだウサギが朽ちていく様子を、

「執拗なまなざし」で記録、録画し、

高速早回し回転で再生した映像作品です。



静物画は「死をあらわす絵画」「ヴァニタス(はかなさ)の絵画」

ともいわれております。

主題として朽ちていく本やろうそく、骨などを描き、

この世の無常さを表すものでもあったそうです。

この作品は、静物画(死の絵画)を、

文字通り映像で表現した作品でした。


サム・テイラーウッドの作品をYou Tube動画で見れます

「A Little Death 」

http://jp.youtube.com/watch?v=5DpVv0LbSGU

「Still Life」

http://jp.youtube.com/watch?v=EAt0XnAjVIs&feature=related  


キリスト教はもともと永遠性と関係が深い宗教ですが

腐敗する果物や動物を表現することで、

逆に永遠性について考えさせる秀逸な作品でした。




つづいては、ドミニクレイマンの「YO LO BI」です。

これは、手足を縛られた囚人らしき人が暗い部屋のなかで

いすに座っています。

しばらく見ていると、自分自身が部屋の中に

投影されているのに気づきます。

これも西欧思想の問題としてよく登場する

「まなざし」についての表現です。

最初、囚人をみていた鑑賞者は、いつのまにか

映像の中に取り込まれており

見られる側になっているという作品です。

思想家のミッシェル・フーコーがベンサムの監視塔で

囚人たちを見張る高台の監視等と

見通しの良い監獄が絶大な抑止力を発揮したことを

考察し「まなざしの権力」について、書いていましたが、

絵画の問題として「まなざし」は常に浮上してくるテーマです。




さて一転して、後半のブースには

日本の芸術感を反映した作品がつづきます。

まず、鷹野隆大の「電動ぱらぱら」作品ですが

老若男女、やせっぽっち、ふとっちょなど、

さまざまな人々の写真が、頭、体、下半身の三分割に

カード写真化され、パラパラ漫画のようにそれぞれの

パーツが変わっていきます。

ちょうど、着せ替え絵本などであるような手法を

液晶画面と写真をつかって行なっている感じです。



そこには、ビル・ボイラが示した人間性はなく

ペラペラな「表層・記号としての人間観」がうかがえます。

これは否定的な意味ではなく、浮世絵や手塚治の漫画にみられる

記号として人をあつかう、「人間」に重きを置かない

思想の反映だと思います。


「自然の恵みや、季節の移ろい、ヒトとヒトとの関係性」

に重きを置き、「人間様」にならず「ヒト」として謙虚に、

もしくは「ペラペラ」に、

もしくは「その場その場の生き方をする」文化ならではの「ヒト」が

表現されている作品でした。





こちらの作品は、日本の作家と西欧の作家が

ちょうど主題的には逆転している面白い構成になっています。

ジュリアン・オピー      森村泰昌フェルメール研究」       

「イブニングドレスの女」



展示場でも、左のジュリアン・オピーが

他の日本人作家と同じブースに、

森村泰昌は西欧のブースの最後に展示されていました。

そして、ちょうど壁をはさんでオピーと森村が入れ子状に

展示されているのも面白かったです。



もうお分かりだと思いますが、

西欧人のジュリアン・オピーが

表象的な記号的な人物画を日本のマンガのように

描いているのに対して

西欧画の名画、フェルメールに日本人の森村が

偽装して、急速に西欧化した日本人を表現しています。



そして、最後に千住博「水の森」の作品です。

液晶画面を屏風に見立てて、美しい湖畔の森を

描いています。

この絵画は湖を描いているのにもかかわらず

ビル・ボイラの「鏡としての絵画」とは、

まったく違う様相です。


それは「絵画は窓である」「借景としての絵画」

あらわしています。

日本人が大好きな長谷川等伯の「松林図」

鑑賞者を静けさへいざいこそすれ、

あたはは誰ですが?自分とは何ですが?

という鏡としての問いかけや、自己言及性はありません。

長谷川等伯の「松林図」


同じ絵画というものを前にした時でさえも

そこに感じる文化的な思いは、異なるのだという

とても当たり前で大事なことが、

ここに表現されているのだと思いました。



今回の展示では液晶絵画という新しいメディアを

つかいながら、西欧と東洋などのそれぞれの文化的、

思想的な差異をベーシックに示した良い企画展でした。



最後に西欧と日本の絵画のとらえ方の違いを書いて終わりにします。

鑑賞のさいの一助になれば幸いです。



西欧アートのテーマ

「絵画は鏡である」

「執拗な まなざし(見る事、見られること)」

「人間の主体性(事実存在す実存主義を超えて・・・)」

「永遠の時間 静物(死の)画」

「皮膚への関心」

「ベールへの関心」




日本の芸術感

「絵画は窓である(借景としての絵画)」

「ヒトはペラペラ(表象)である」「人間様ではないヒト」

「うつろう時間」

「肌コスメへの関心」

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